7/16/2009

パリではしゃぐ par 東京スカパラダイスオーケストラ-”ska me crazy”♡-

大好きな東京スカパラダイスオーケストラがパリにやってきた!



@France Paris 「Le Café de la Danse」
La Bis!アンコールにて「愛の讃歌」


「Ska me crazy」

彼らは勇んで、EUROPEAN TOUR 2009を続行中。
昨日でスペインの約7日のツアーを終え、
フランスには何故か一泊、明日はベルギー、スイス、アムステルダムへと移動して
ツアーは終焉を迎える。



今日は久しぶりに暑いパリが戻って来た。
そして久しぶりにテンションのあがった私がいる。
バスティーユ界隈へとルンルンと出掛けてゆく。
14 Juilletのfeteで今週の頭に賑わっていたばかりの場所へ。




友達となかなか落ち合えず、少し遅れて中に入る。


「5 Passagge Luis Phillipe. Café de la Danse」

すると、もはやあつーい湯気がたちこめるかのような
箱ができあがっている。
ビールがあまりシュワッと感じない程の熱気である。


みな歌っている。踊っている。
西洋人の姿かたちに紛れ、日本人の顔ぶれがやや目立つ。
私も久しぶりにはじけて叫び歌い踊りまくる。
(こんなにはじけたのは、数えてみたら5カ月ぶり...。)
人間誰もがいい音楽を聞くと踊り歌う。



フランス人も日本人も区別がつかない程みな踊り狂った。
ジャンプしこぶしを振りあげてそれはそれはbonne soirée!
最前列には日本からずっとこのヨーロッパツアーを見守っている
という「大型」ファンもいた。
生き生きとしていた。
やはり盛り上がるのは、「ska me crazy」「white light」。
アンコールでの「愛の讃歌」は、彼らの持ち味がワールドワイドに
生かされており、国境を越えて人間の♡をキャッチしているその姿に、
日本人として誇らしく思えた。
(ありがとう!スカパラさん!)


いつもステージを盛り上げてくれるギターの加藤さん。
かっこよかったです!


入り口付近でTシャツを買うフランス人のgarçons.
スカパラが「大好きぃ!」なんだそうだ。



「東京」で思い出したが、
フランスにいると、「中国人?日本人?」と必ず聞かれる。
日本人だと答えると、彼らは途端に嬉しそうにする。
どこ出身だとさらに聞かれる。
東京だと答えると、さらに株があがるようで
喰い入るように近づいてくる。
今やTOKYOというブランドは、フランスでは過大評価されている。
誰もが一度は行ってみたいと願う憧れの地なのだそうだ。
その思いを叶えるべく(?)、
はるばるパリに遠征してきた東京スカパラダイスオーケストラは偉大である。
2000年から始めた彼らのこのヨーロッパツアーも来年で10年目。



来年もパリで会えますように!

サンパなカフェに人だかりが絶えないバステーユ界隈。
rue de Lappe.

7/12/2009

メトロのエレベーター缶詰事件-oh les pompiers-

トロのエレベーターに閉じ込められた。

パリは22時まで明るい。
なので17時頃、フラッと日曜公園へと散歩に出掛けた。
その帰り道であった。


家の最寄りの12番線、Lamarckでの出来事である。
約25人の乗客が、
蒸し暑いオーブンのような機械の中で
フュメされる寸前であった。


Lamarckでは、メトロを降りた後
出口に着くまで、ながいながい、それはながーい階段を
昇り詰めなければならないため、
いつもエレベーターを使っている。
階段を昇る巡業者のような人物はあまり見たことがない。


そのエレベーターは、ボタンも何もない自動運転である。
普段からちょっと恐いなと思っていた。
開けだの閉じろだののボタンがないのだ。

エレベーターに乗ってもすぐには出発しないので、
今日はipodで音楽を聞きながら、本の続きを読んでいた。
1分程経って周りがざわつきだした気配がしたので、
イヤホンを外してみる。
すると、扉が閉まったものの、
どうやらエレベーターが動かないようである。
なに、すぐに動くだろう、と皆が思った。
しかし動く気配がない。
2分後、隣で立っていたおじさんが、緊急用のボタンを押す。
状況を伝えていたのだが、途中で途絶えてしまう。

ここ一週間、パリは寒かった。
昨日まではレザージャケットを着ていた。
しかし今日に限って蒸し暑さがうっすらと戻って来ていて、
5分缶詰になった後はすっかり息苦しくなってきた。
緊急用のボタンは、動じない。
ずっと話し中である。

次第に乗客はざわざわとし出す。
ドア付近に立っていたアジア人と西欧人のカップルが、
ドアをドンドンと激しく叩き出す。
後ろの人が、叩くのはやめてと言う。

こんな映画をみたことがある。
「cube」だったかな。
あれは結局どうなったっけ、などと考えていた。
もしこのまま夜を過ごすことになったら、
メトロの異臭どころではない異臭がするんだろうな、
などとも考えていた。

一人のフランス人女性が、
出口で待ち合わせしているらしき友人に電話で状況を伝えている。
ある中年を越えたマダムは、呼吸困難になりそうな状況らしく、
泣き出した。
後ろに立っていた黒人の男性が、雑誌で扇ぎ
マダムに風を送ってなだめる。
私は彼女の背中に祖母の面影を思い出し、
その背中をさする。
大丈夫、大丈夫と。

これ以上誰もパニックを起こさないようにと願いながら、
さらに待つこと3分。
問題への対処が遅いとわりと短気になる私は、
何で誰も何もしようとしないんだろう、
と疑問に思い始める。
緊急用のボタンに近づき、しきりに押してみる。
しかしずっとお話中である。
誰かに電話をしていたマダムに、
消防署に電話をしたほうがいいのではないかと話しかけてみる。
そうね、と、そのマダムはほかの人たちに同意を求める。
パニックになってから消防員を呼んでも遅い気がした。
パニックになった25人の人間に囲まれては、正常でいる自信がなかった。
身の危険を感じ始めたちょうどその時、
ドアの向こうに消防隊員が立っているのが見えた。
約13分間の出来事である。



ドアが開くと、みな何ごともなかったかのように
やれやれ、と出て行った。

「こんなことはよく起こるのか?」と
マダムに聞いてみる。
「今迄経験したことはないが、起こらないとは言えない」
と言う。



エレベーターの中の乗客を外に出した後、
ドアを開けてくれた消防員たちが
エレベーターの中に入っていった。
「あっつい!」
と笑いながら叫んでいる。

そう、暑かったよ。
そして息苦しかったよ。

日本でこういう状況にあったことがない私は、
わりと人間は暢気なものである
という事実を目の当たりにし、驚いた。

あの中で何かしようと行動していた人は、たったの4人である。
ラテン人だからスロウなのだろうか。
私は日本人なので、すぐさま、という思考回路。
どうもフランス人の行動パターンが理解できない。
いろいろな仕事が分業されていて、次の仕事への流れは無視。
自分の責任が明確に区切られているその世界観。



LA POSTで送った荷物が盗まれた事件や、
エレベーターが止まってしまう事件。
もっといろいろなことがここでは起きているのだろうが、
これ以上体験するつもりはない(のだけど)。


部屋に戻り、とりあえず警察と消防署の
連絡先を携帯に登録する。


7/11/2009

痛み越えの笑い-drôle!-

私は今、
「きらめく日々」(?)を送っているのかも知れない。



日本からの友人が帰った部屋で、ふと考えた。
全てが順調というわけではないけれど、
愛の領域が心を大きく占めると、人は変わるのかも知れない。
愛とは恋愛の愛のことだけではない。
改宗したわけではないが、隣人愛も含む。


部屋のベランダに出ると、最近お向かいさんと目が合う。



黒い猫ちゃんである。
向かいのアパルトモンの最上階の住人と同居しているようだ。

彼女は窓からひょいっと飛び出し、屋根をつたって10m程散歩をし、
鳥などを目で追うのが好きなのだ。
時折首をかしげて上を向いたり、下を覗き込んだりする、
シルエットがあどけなくて可愛い。

今までは一方的に私が見つめるばかりだったのだが、
最近私の存在に気付いてくれているようだ。
私がベランダに出ると必ずこちらを緑色の目を光らせて見つめ返す。

彼女の存在のおかげで、部屋に帰ると
いろいろな気分が晴れてゆく。
例えば今日は、LA POSTから空っからで空っぽの郵便物が届いた。
ポーからパリに引っ越す際、2週間前に自分宛てに送ったものだ。
総計13kgの私の大切な本や貴重品が、全て消え失せた。
ボロボロになって畳まれた段ボールが
無様にビニールにくるまれている。
それを、はい、っと得意気に配達員に渡された。
何故それを届けにくる?
死後告知みたいである。
唖然。呆然。パニック。
短時間にめくるめく気分に会い、とりあえず今できることをしようと決める。
パリの警察に行き、紛失証明書を作る始末である。
ここまで一人でできるようになった自分にもフト関心してみたりする。
偉いぞ。
しかし、何とも最悪な出来事が起きたのだ。
La Postはもはや、私の天敵以外の何ものでもない。
(このお話はまた後日。)

部屋の角に置かれた無様な段ボールを見るたびに、
実際もう、その馬鹿さ加減に大笑いしてしまうのだけど。


こんな最悪な日ですら、
お向かいの彼女をベランダから見ると
途端に違う時間が流れ出し、嫌な気分が失せてゆく。
ピュアな生き物には、人の邪気を払う力が備わっているに違いない。



ひと気のない部屋で続いて考える。
去年は人生で3本の指に入るどん底を経験した。
人生の冬とも言えるだろうか。
前厄に一気にいろんなことがきた?
その時と比べると、今は心が軽くてむしろ浮かんでる気すらしてくる。
雲よりは低く。鳥と同じくらいの高さで。
お向かいさんのところまで道路を越えて飛んで行ける感じだ。

LA POSTのようなこととあまり変わらない出来事
が次々と起きた去年。
一年も経っていないのに、
暗く気持ちを塞ぐ思い出が、
既に過ぎ去って埃がかぶってすら見える。
今いる場所が、雑踏のない静かな通り沿いだから?
モンマルトルという私にとって神聖な場所の麓だから?
不思議。



その時は辛くて悲しくて
死ぬかと思ったくらい苦しんだのに。

ちなみに、辛い日々を思い出してしまう歌というものがある。
その時聞いていた歌。
歌は様々な思いを詰める不思議な容器である。
14歳の時の失恋ソング集(今スペインに住む友人が昔作ってくれたもの)
に入っていた歌をまだ覚えている。

去年のつらーい日々を思い出したくないがゆえ、
ずっと聞けずにいた曲があった。
しかし、日本を離れてからというもの、
あまりにも歌の本数が底をついてきたので
思い切って聞いてみることにする。

すると、なんということなしにすらすらと聞ける。
まじまじと辛かった気持ちが蘇るのも事実。
でもその痛みすら懐かしく感じる。
いや、むしろ笑みすら浮かんでくる。
痛々しい思い出なのに、真っ向から向き合える。
時間とは、新たな愛の経験とは、素晴らしい!



何であんなに深刻になってたんだろう、とか、
いまとなっては何であんなに思い込んでいたのだろう、とか。
一生懸命傷みと向かい合っていた自分が、
人生の一点しか見ていなかったことに気付く。
サイフを落とした人が、元来た道を戻り、
ひたすらサイフの痕跡を求めて探しうつむく姿に似ている。

と、こんなに余裕を持って去年を思い返せるのは、
きっと今すごくいい状態だからなのかも知れない。
LA POSTの荷物のことは、
あまりの悲劇なのでもちろん考えないようにしている。
出来ることだけやったら、後は忘れる。
覚えていたら、怒りで煮えたぎってしまって
今この瞬間がもったいないからだ。

人はいい状態の時に、いろんな気持ちや思い出を精算するといい。
特に辛くて向き合えずにきたもの。
そっと蓋をして目を背けてしまったもの。
きっとこの先も、
またいろいろな出来事が待ち受けているのだから。
同じようなことが起きたら、
今度はどうってことなくなっちゃえばいい。
生きてる限り、パワーアップしてゆくしかない。



すると、どんなことも、
深刻になっても仕方ないことが分かってくる。
ちなみに、LA POSTの今日の出来事は、
不快に思う反面、大笑いしてしまう。
いや、爆笑せずして人に話しなどできない。

どうやらぐいぐいとパワーアップしつつあるようである。


7/05/2009

モンマルトルの散策道-souvnir de Monmartre

モンマルトルの麓に住む楽しみは、夜の散歩である。



夏のパリは22時迄明るいから、0時過ぎまで
散歩していても恐くない。
観光シーズンのため、常に人通りが絶えないからだ。

メトロLamarckの手前の階段を昇り詰めると、
閑静な住宅街が斜面に沿って続いてゆく。
そこを歩いてゆくと、サクレクール寺院の左側に出る。




石畳の道をサクレクール寺院の幻想的な
ライトアップを見守りながら進む。

この人生の旅情に満ちた通りを、
トゥールーズ・ロートレックや
モネやゴッホが歩いていたのかと思うと
胸がキュンとなる。


1871年のパリ・コミューンの時も
犠牲者を多く出したであろう道、道をゆく。
お気に入りの散歩道。




サクレクール寺院を少し下ると、
エッフェル塔の見える夜景スポットが。


ちなみに夕刻、といっても21時くらいにはこんな感じ。



両側の馬に乗った人物の片方は、ジャンヌ・ダルク像。
パリ市内を見守る。
Il y en a beaucoup comme ça en france , sur le statu de Janne d'Arc.
Elle est trés populer permis les gens français.

余談。
サクレクール寺院を左手からのぼってゆく途中、
手前の坂を左に下ると、
小規模なブドウ畑がある。
そう、ここが噂のモンマルトルのワインファーム。
C'est trés petit!







7/04/2009

この時代。このアート。-les expositions à Paris-

やはりアートが好きである。



パリでは毎日アートに触れて生活していたい。
なぜなら雑踏においては、
何かに熱中していないと気が狂っちゃうような、
私はしょせんマテリアル人だからだ。
所変えた途端、スローライフは早くも過ぎ去ってしまった。



でも、正直言って現代アートを上手に解釈できない。
いや、公正に評価できない。
それは、今この時代のまっただ中に生きている
人間の一人にすぎないからだと思う。

混沌へのむやみやたらな困惑。
飽和の先で待ち構えた枯渇感。
今風と呼ばれるステレオタイプな仕上がり。
そんなものを表現した今っぽいものに関して、
それを最初からそうと決めつけてかかってしまう癖があった。
色眼鏡で見ている単なるいやなおばさんである。
だからそんな自分を意識して、
できるだけクリアな気持ちと瞳で
数々のモダンアートに触れてゆこうと思う。

人がうじゃうじゃとごった返すギャラリー前。

日本での展示会巡りの日々を思い起こさせる光景。
ファッションアディクトの装いを久々に見かける。
懐かしい。

シュール。





trés bien et il est trés connu.
混沌の中にあるひとつひとつのシンプルな存在感。






自転車で身軽に展示会まわり。Parisien.

7/03/2009

ガラス瓶の色-sur etre agé-

歳をとった時、人は何をするか。
あぁ、また歳とっちゃった。
自分の歳を出来るなら隠したい。
そろそろ結婚したい。
例えばそんな感じだろうか。



もしくは、「はて、私は何をしてきただろう。」
そんなことを、誕生日に一年を振り返りながら
考えてみたりするものか。
そのために誕生日って存在するものなのかも知れない。

高校時代、急にどこかに去ってしまった友人が
遠くから私に綴ったことがある。
「海沿いの断崖絶壁にぽつりと座って、この一年を振り返ってみた。」
そして、彼女は強く生きようと思ったそうだ。

おぉ。。素晴らしい。 私も振り返らねば。
16歳だった。
そう思ったのを覚えている。

きちんと歳をとるということは、
ちょっとは振り返るということなのか。


相変わらず肌の毛穴をくり貫かんばかりに刺す
日射しのもと。
パリのカフェで、友人がふとしゃべる。

「この前、大台に乗ったの。
今迄は、決して過去を振り返らないようにしようと思って来たの。
とにかく前だけ向いて生きようって。
でも、大台にのったのをきっかけに、
そぉっと、おそるおそる、
肩越しに後ろを見てみたのね。
そしたらさ、なんっにもなかったのよ。」




「人生ってね、一本のガラスの筒にお気に入りの

色や柄の物を詰めて行くものだと思うの。

産まれた時、神様が試験管の瓶をその人用に
渡してくれる感じ。
それは人によって 短いかも知れないし、長いかもしれない。
途中で壊れてしまうこともあるかも知れない。」



「そのガラスの瓶ににはひたすらきれいな色を詰めて行くの。

それがお気に入りのデザインになるように、とかね。
でも中にはね、汚い下着を詰めて、これが私の人生、って
胸を張って言う人もいて。 その人はそれをいいと思ってて。
端から見たら変かも知れないけどね。
ある人の瓶はすっごくきれいで、こっちから見ると光って見えて。
それはいわゆる”隣の芝生は青い”やつかも知れない。」



そうやって、人生は自分の愛するもの、
人、思いのかけら、
形、色で染めてゆくもの。

最終的にどんなピースが積み重なってゆくか。
それを途中で微調整できたりもするもの。

そんなことを語ってくれた。

あら。
危険だった、私。
ともすると、流れ心地の良いままに流れ、
流されるのを不可抗力と勘違いして
そのまま流されていきそうな人生。

振り返ることは野暮かも知れなくて、
時にしんどかったりもする。

でも、例えば自分を本当に愛してくれる友達や恋人を
つまらない時の状況で大切にできなかったり。

ちょっとした臆病で
、大切な人を
本当に信じることができずに終わってしまったり。
そのまま意地を張ってしまって素直になれなかったり。

人生でありがちなシチュエーション。
すごく歳をとってしまった後で後悔するのも、
もの悲しい。





「c'est la vie.」
とは何か不都合なことが人生で起こった時に
フランス人の誰もが口にする言葉。

これだけは私はあまり好きになれない。

なんであきらめるの?途中で何とかできたかも知れないのに。
そう思ってしまう。


もちろん、 能天気な生き方は嫌いじゃない。
なっちゃったものは仕方ないね、残念。
そう。潔くて
悪くない。
でも、大切なものや思いは決して
手放してはいけないと
改めて思った一日であった。



ちなみに彼女について。

私にとって彼女は
十分築いているものがあるし、
とても素敵な人生を送って来たと思う。
そう、隣のガラス瓶の中身は眩いのだ。
きっと人によって、「完璧」のビジョンは異なるのだろう。
あとは、自分の「満足」とは何かを知り、
それを詰めてゆくのみなのだろう。
(言うのは簡単なのですけどね。)


Merci pour ton grand avis!